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「おとうちやん、どこへ行くの」
「買収ですかな」
「今晩、寄せてもらつてもえゝですか」
熱心になっていた「な」の字さんは多少失望したらしい顔をした。
「やあ、君か」
そして、少し横手に身をひきながら、しげしげと房一を眺めた。感慨無量、と云つた態ていであつた。
こういう不便が多々ある代りに、むかしの温泉宿は病を養うに足るような、安らかな暢のびやかな気分に富んでいた。今の温泉宿は万事が便利である代りに、なんとなくがさついて落着きのない、一夜どまりの旅館式になってしまった。一利一害、まことに已やむを得ないのであろう。
と、大声で訊いた。
一番はしの家はよそから流れて来た浄瑠璃語りの家である。宵のうちはその障子に人影が写り「デデンデン」という三味線の撥音と下手な嗚咽の歌が聞こえて来る。
と、その稍落ちつきのない女らしい黒瞳くろめがちな眼を道平に向けた。
「ふうん」
「さうだね。まさか医者の家に古障子の玄関といふわけにもいくまいね」
焼香が済むと別室へ案内された。だが、こゝでも各自に大体自分の坐らせられる席を心得ていながら、すぐには通らうとしなかつた。で、神原直造が一々その人の前に行つてそれぞれの席へ順に案内した。正面の床柱の前には大石正文が猫背のまゝ顎を突き出した恰好で坐つた。その次は上町の醤油屋の主人だつた。正文と等位置の左手へかけては堂本が坐つて居り、大石練吉がその隣にいた。二三人置いて庄谷の顔が見えた。その辺りが上座だつた。