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「いや、あの晩の、ほんの三二日前です」
――「それでは、わしの方からお礼を云はなきあならんのです。どうぞ、よろしく願ひますわ」
私は朝と夕方と真夜中に入浴する。朝、ぬるいうちに私がはいり、そのあと熱くして家族がはいる。それをほッとくと、夕方、私には手頃のぬるさとなっている。
この分では永くなりさうだと思つて、房一が腰を浮かし気味にすると、
「どうも御苦労さま、暑いところを」
温泉の浴場は溪ぎわから厚い石とセメントの壁で高く囲まれていた。これは豪雨のときに氾濫する虞おそれの多い溪の水からこの温泉を守る防壁で、片側はその壁、片側は崖の壁で、その上に人々が衣服を脱いだり一服したりする三十畳敷くらいの木造建築がとりつけてあった。そしてこれが村の人達の共同の所有になっているセコノタキ温泉なのだった。
今泉は調子づいた。
ふたたび相手の鞄にちらりと目をやりながら、練吉は半ば信じない風に訊いた。
と、房一が声をかけた。
「はあ!さう――ですね」
「ふうん、潰れるだらうな」
それつきりだつた。相沢からはその後何とも云つて来なかつたし、又向ふから来もしなかつた。けれども、訴訟のことは、たとへその日の相沢の気振りだけだつたにもせよ、房一が進んで聞きたい話ではなかつた。房一は、相沢といふ男からは、極端にむら気な、何か容易に手につかめないもどかしさを感じていたが、同時に、一脈の執拗さを受けとつていた。それだけに、競馬場でのあのくるくると廻るやうな、速い、曖昧な云ひ残しが、ふしぎに印象を残していた。
「はあ、はあ」